僕は人の名前をよく忘れてしまう。「先日のマジック、楽しかったよ!」なんて、声をかけられると、顔はかろうじて憶えているけれど、会った場所と名前は、まず思い出せない。
だから、「あ、その節は、お世話になりました…」なんて無難なご挨拶をする。マジシャンなのに、名前を忘れましたっていうのも間抜けな話だと思うからだ。
まぁ、毎日、様々な場所でたくさんの人に会うから、仕方のないことかもしれない…、なんて、言い訳とアキラメの混ざった、気まずさをいつも感じる。顧客の顔と名前を全部憶えてしまう、ホテルのベテラン・ドアマンの話なんかを本で読んだりすると、とても憬れる。
先日、NHKの廊下で、ドラマの撮影中のベテランとして名を馳せる女優さんと顔を合わせた。以前にパーティでご一緒したことがあったので、挨拶しようか、しまいかを迷った。僕のことを憶えていないかもしれないし、セリフの暗記をしているかもしれない。でも、万が一、相手が憶えていたら失礼だと思ったので、声をかけることにした。
その人はわずかに驚いた顔をして「あ、こんなところでお会いするとは思いませんでした。その節は、お世話になりました」と優しく答えた。
僕は、そのフレーズを聞いて、とても嬉しくなった。もし憶えていてくれたのなら素直に嬉しい。もし、憶えていなかったとしても、「何処であった誰か」を憶えられないのは、僕だけではないかもしれない…と思ってホッとした。
何よりも、「こんなところでお会いするとは思いませんでした」というフレーズを知り、僕は魔法の言葉を手に入れたような気がした。初対面でも再会でも、再再会でも…。